長編小説を書きたい。

中野黄加です。

タイトルにもあるように、長編小説を書きたいと思っております。

さらに現実の私にも少し大きめの苦労が迫ってきていることがひしひしと感じられております。逃げちゃ駄目だという状況ほど興奮して失踪するタイプなのでとても不安。

なので長編小説を作るという名目のもと2019年7月よりブログの更新を低速にします。

では、お目にかかれない時の分までこんにちはこんばんはおやすみなさい。

中野在住じゃない中野黄加でした。

水族館を謳歌する(すみだ水族館)

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中野を謳歌 第11回 水族館を謳歌する。

このブログはフィクションであり、筆者の妄想と夢で出来ている。真に受けたことによる一切の責任は負いかねるので悪しからず。

 

これは、すみだ水族館に行ってきた話である。

東京内で数時間のスキマが突然生まれた時、ちょうど良いと電車に揺られてスカイツリーが鎮座する押上駅へ向かったのが始まりであった。

 

押上駅を降り、東京スカイツリータウンをぶらぶらと歩いていると、この建物内に水族館があるという情報を耳にした。先日、海の映画をみたばかりとあって、水族館を楽しむ心持ちは十分である。想像以上に広い東京スカイツリータウンに翻弄されつつ上下左右に動き回った末に外に出た。そこには首の骨が折れるほど高い塔があった。これがスカイツリーらしい。高けぇなオイオイ、と一人興奮していたら首を痛めた。しかも周りの地元民らしき方々にはなんだあの野郎、空なんか見てやがると冷ややかな視線を送られた。電車に乗っている時にチラリと見えれば「おっ、スカイツリーだ」と思っても、実際にスカイツリーの近くで住んでいるともはやただの白い棒なのだ。

 

少し歩くと水族館に到着した。なんとなく勢いで来てしまったものの、本当に水族館に入るとなると緊張する。周りは制服を来た中高生の集団と各所から観光に来た東京旅行団とイチャイチャしているカップルばかりである。一人で首をさすっている男などいない。しかも入場料が2000円くらいするのだから悩む。旅行団の一味のふりをするという作戦も考えなくはなかったが、そんな阿呆のような真似をするくらいなら2000円払ってやろうではないか。そう思い私は列に並んだ。

 

水族館に入って数分後、私は入口で悩んでいた事をくだらなく思った。

海に深く潜ったように薄暗い部屋で美しく水中を舞うミズクラゲ。あの体全体を揺らめかし、それに遅れてゆっくりとヒラヒラする触手は見ていると癒やされる。しかもクラゲには心臓が無いため、体全体に酸素や栄養分をめぐらせるために体を揺らしていると聞き、私はよりクラゲに惹かれた。あの動きは心臓の拍動と同じであり、リズミカルに動く彼らは美しい。全力な人が好きなのと言う人らの気持ちも分からなくはない。彼らの生の鼓動は私が目を離しても止まりはしない。

 

さらに進むと大きな水槽が置かれている。水槽には魚だけではなくたくさんの植物も棲んでいた。まるで海を空間ごと切り取ったように有機的な環境であった。近くに書かれた解説文を見て驚いた。なんと水槽に刺さったパイプから吹き出している泡は酸素ではなく、二酸化炭素らしい。水草二酸化炭素と光を与えて酸素を作らせ、それを使って水槽内の生物が呼吸する。まさに自然の循環を再現していたのだ。

 

その先もたくさんの魚が名札と一緒に様々な水槽内で生活しているのを眺めていた。小さい水槽に小分けにされた魚たちに慈しみと同時に悲しみを感じた。人間のためにこんな狭いガラスの檻に閉じ込めている罪悪感。せめてたくさんの食事をもらっておくれと手を振りながらこの区域を抜ける。

 

次第に開けた場所に出た。一番大きい水槽には多くの種類の魚が縦横斜めと泳ぎ回っていた。視界の外から急に現れたサメには驚きつつも、噂に聞いた通り、おちんちんが二本あるというのを確認した。サメのおちんちんはなぜ二本もあるのだろうかと考えながら大水槽を眺めていると、この水槽自体が大きな子宮に見えてきた。嘘である。そんな詩的に物事を見ることなど私には出来ない。頭の中はちんちんばかりであった。発情期なのか。

 

次に見たのはペンギンの区域である。

水族館は二層構造になっていて、ちょうど上の階と下の階をつなぐ橋の下にペンギンがいるという寸法である。もしも身を乗り出して見ているうちに後ろから突き落とされでもしたら、その瞬間からペンギンの仲間入りである。魚を丸呑みすることを強要され、鳥のくせに飛べないとヤジを飛ばされるのだ。そんな生活は嫌だ! ということで手すりに掴まって遠巻きにペンギンを見る。

この前、ペンギンハイウェイを見たせいか、ペンギンのイメージというのは可愛らしくてちんちくりんなものだというイメージがついていた。しかし実際のペンギンはもっとバサバサしていて獣感がある。近くで見ると恐ろしい。ペンギンハイウェイが実写化されたら気色悪くなってしまうのでないだろうか。

 

そんなことを考えながらペンギンを見下ろしていると、足元から急に大きなカタマリが飛び出してきた。近くにいた少女と私は「うわぁ!」と叫び、少女は母のもとへ走っていった。私はただ胸を抑えていた。どうやら橋の下でアシカが結構な速さで泳いでいたようだ。私は怖くなって橋を駆け足で渡った。

 

そして、いろいろな魚を見て回り散歩がてらに何周かして水族館を後にした。

 久しぶりの水族館だったが、意外と楽しく回ることが出来た。そもそも一人で水族館に行くのは初めてだったので、一人でグルグル水族館を回っているのを客観視するとちょっと悲しくなってくる。次第に一人の楽しさに慣れてしまうのだろうか。あと、デートにもちょうどいい場所だなとも思った。検討されたし。

 

今度は一人焼肉だ、と意気込みつつ、今回の記事は締めさせていただく。

 

二回分の入場料で年間パスポートを買えるすみだ水族館

www.sumida-aquarium.com

 

 

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海獣の子供を謳歌する

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中野を謳歌 第10回 海獣の子供謳歌する。

このブログはフィクションであり、筆者の妄想と夢で出来ている。真に受けたことによる一切の責任は負いかねるので悪しからず。

 

単刀直入に書こう。

この記事、海獣の子供の映画が面白かった話である。

 

突然だが、私は前々から映画鑑賞時の音が気になっていた。音が大きすぎるのである。要所要所の轟音が私の鼓膜を激しく振動させ、せっかく映画に没入していても轟音で興ざめする、ということが少なくなかった。

そんな悩みに解決策が出た。イヤホンを使うのだ。カナル型(耳栓のように密着するタイプ)のイヤホンを耳にはめておくと、轟音が軽減されてとても良い。着脱も簡単なので、よく聞きたいときは外せばいい。

 

映画の話に入ろう。まず、映画鑑賞の約二時間は一瞬にして終わる。夏休み最終日の「今年の夏休みは一瞬で終わった気がする」という時の感覚と同じである。まるで夢のような時間だ。ネタバレはする気はないが、最後に米津玄師さんの海の幽霊が流れた瞬間、あっ終わってしまったのか……という吐息が漏れる。これ以上の幸せがあるのだろうか。思いつかない以上は反論しようがないので暫定一位である。

 

次に音楽。担当されているのはジブリ等の劇伴でおなじみの久石譲さん。ジブリ映画を見ていて感じる幻想感や広大さは本映画の音楽にも多く含まれている。サントラを買って聴いてから映画を観に行ったので、映画内で流れた時により深く聴き込めた感覚があった。海の深さと恐ろしさをまとった音楽に重なる美しい映像は素晴らしいというほかない。

 

music.apple.com

 

しかし予告編を観た時、この映画を見ることに少しばかり恐怖を感じていた。その理由は、予告編最後に流れる超巨大なクジラである。自称巨大物恐怖症の私には画面いっぱいのクジラを劇場で見るのは不可能ではないかと思われた。だが、どうしても観たい要素が多すぎるので、恐怖心を振り切って映画館へ向かった。

 


【6.7公開】 『海獣の子供』 予告1(『Children of the Sea』 Official trailer 1 )


【6.7公開】 『海獣の子供』 予告2(『Children of the Sea』 Official trailer 2 )

 

同じく巨大物恐怖症の人らのために記述しておくが、クジラ等の巨大な海洋生物が登場するシーンはほとんどない。目をつむれば回避できるレベルなので軽度の恐怖症の方なら難なく見れるはず。不安な方は予告編で耐えられるかどうかで判断すると良い。

 

あとは、とにかく表現が美しい。映像という点では特に光の表現が美しい。海中から見える水面の光であったり、ヌラヌラと光る魚たちの体、登場人物たちの瞳の輝き。光が美しいというのは、夜の暗さや闇が美しいということでもある。

 

一つだけネタバレするとするなら、エンドロール後にも映像があるということくらいだ。内容については言及しないが、とても興味深い内容だった。

 

ということで全く内容に触れずにここまで来たが、実際見終わった後、内容について語れるほど深く理解することは不可能であった。この宇宙で人間が理解できることなど殆ど無いので、実質この映画は宇宙である。ユニバース。

 

屁理屈をこねたが、実際私は映画の美しさに見惚れていただけなのだ。もし内容を知りたいなら原作を読めとしか言えない。見て読んで損するような作品でないことだけは確かである。

 

最後に、これを読んでいる時、劇場で観られるのであれば是非とも観に行くことをオススメしたい。一番おすすめなのは観に行く3日前からサントラを聴き込み、映画館に向かいつつ海の幽霊を聴く。あとは映画前にしっかりお手洗いに行って水分補給は程々にしておくことを意識しておくと良い。映画後半に尿意でモゾモゾすると大変だから。(実体験)

 

 

 

 

 

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自意識過剰を謳歌する

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中野を謳歌 第09回 自意識過剰を謳歌する。

このブログはフィクションであり、筆者の妄想と夢で出来ている。真に受けたことによる一切の責任は負いかねるので悪しからず。

 

私は最初、自意識過剰は幸せであるのかという文章を書いていた。

それはかけば書くほど深い樹海に迷い込んだように方向感覚を失い、ポケットにしまいこんでいた方位磁針もあちこちを指すようになってしまった。正解はあちこちにあるようでいて、それらはどれも近づけば霧散する。

こんな恐ろしい文章を書き始めてしまったことに恐怖した私は妄想からの脱却、つまり文章を抹消することによって自意識の樹海から抜け出すことに成功した。

 

だがしかし、私はまたこの文章を書き始めている。

 

それはこの内なる自意識と対峙せねばならぬという決意。あるいはこの文章の転がる先を面白がって見てみたいという好奇心。どちらにせよ問題は一つ。どう転がすか。

 

先程書き記した樹海の地図は、捨ててしまってもうどこにもありはしないが、樹海で迷った経験というのは失いようがない。

 

きっといつか結論が出せると願ってこの先の文章を書いていく。私は樹海の先にある美しい湖を目指すのだ。

 

自意識とは何か。私は樹海に入り込む前に、背負ってゆく荷物を整理することにした。

 

自意識とは自我であり、自分と世界とを切り分ける切り取り線、もしくは自分に対する意識、考えである。自意識過剰とよく耳にするが、それは多くの場合被害妄想であったり、自己の評価という意味で用いられる。自分にベクトルが向いた物であるのは確かである。

 

自意識は自己評価を促し、周囲を見渡すことを教える。周りの人間の表情や視線を見て、自分はどう思われているのか、彼らは何を思っているのかを私に考えさせる。

 

それは時に自己理解と成長につながる。欠点を発見しパッチを当てる。しかし、自意識は時に過剰に私に問いかける。それで良いのか。お前には何も見えていないのではないか。

振り払えるほどの過剰さなら問題はないが、ウイルス感染のように全身に拡散する自意識は次第に体を重くし、自分と世界を明確に隔絶。そして独立した個体のように自己を認識する。目を塞いでも聞こえる批判に、耳を塞いでも見える嫌悪感。それらは世界が自分を拒絶しているようで、自分の輪郭線を太く濃くしていく。

 

だからといって自意識を失ってはならない。

自我のない精神はただただ歯車として回り続け、全体の構造を思案しない。歯車を円滑に回すことには精通するかもしれないが、それ以外の成長は見込めない。だが、世界は歯車を必要としている。時に形を変え、加減速していく歯車は扱いにくい。自意識の欠如が不幸かと問えば答えは定まらない。

 

そろそろ方向感覚を失いそうだ。

 

自意識に溺れてしまえば欠点もあちこちに分身し全体が病原菌に侵された錯覚を起こす。

忘れてはならないのが、自分と世界とは切り分けることが出来ない。ただ薄く点線として切り取り線がそこにあるだけ。切り取るのはいつだって私だけなのだ。

 

まずい帰り道を見失った。進むしか無いのだろうか。

 

自意識の量が適切であることが重要であるというのは書き始める前から分かっている。ただ調節することが出来ない私は、この持て余した自意識を抱え続けるべきか、この樹海に捨て置いていくべきなのか、それが問題なのだ。

 

自意識過剰が身を滅ぼす危険性を孕んでいるのと同時に、ある種の危機察知能力として働くのもまた事実である。自分に向けられた銃口に気づかず撃ち抜かれるか、常にありもしない銃口に恐怖して回避するかの違いでしか無いが。

 

考えると、自意識の有無によって変わるのは滅ぶ時だとも考えられる。世界から自分を切り取って自滅するか、隣人に後ろから撃たれるか。

 

私は抱えきれない自意識をポイと捨てて樹海から逃げ出した。

私には自決する覚悟もなければ死刑執行を他人に頼む懐の大きさはない。

結局樹海に眠る湖は幻となり、私は自意識を小出しにゴミ袋に詰め込み、燃えるゴミの日に紛れて捨てた。

 

 

 

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我々はなにゆえあの脂肪の塊にうつつをぬかすのか【恋文の技術_感想】

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読書感想文2000 第三回 恋文の技術

カテゴリ【小説】

タイトル【恋文の技術(森見登美彦)】

評  価【健全なる精神は、健全なるおっぱいに宿るで賞】

───────────────────────

〈概要〉

京都の大学院から、研究のためという名目で遠方の研究所へ飛ばされた男が一人。

 

彼はクラゲと厳しい先輩だけしかない僻地での寂しさを埋めるため、恋に悩む友人や、意地悪ばかりする女帝、家庭教師のお姉さんに恋する少年、不意に本質を突いてくる鋭い妹に、有名作家の森見登美彦というたくさんの人々と文通修行に励む。

 

恋文代筆のベンチャー企業を作ろうという目論見が生まれるほどの文通長者になった男にも、手紙が送れない女性が一人いて……

 

彼らの送った手紙から読み解く、恋心と単位の行方やいかに!!

 

〈感想〉

またまた森見登美彦さんの本の感想を書きます。

 

手紙をのぞき見する形式の小説、書簡集という形もありますが、私はこの形の小説を読むのが初めてだったので、とても新鮮な気持ちで楽しむことが出来ました。

 

本に描かれている多くの手紙の送り主である、遠方の研究所でマンドリンの音色に包まれながらクラゲを眺める守田一郎。彼のペンにはジェット推進でも付いているのかというくらいの速さで手紙をあちこちにばらまきます。現代では手紙などを送ることも少なくなって、もっぱらtwitterだのgmailだのを使って連絡を取り合いますが、手紙というアナログの手段の中にしかない面白さや楽しさというものをこの本では覗き見ることが出来ます。しかし、気になっていたあの人に連絡を取ってみるか……という気持ちにはなりません。そういった教訓めいたものなど一切ありません。

 

この作品のなかで特に楽しめる部分というと、やっぱり読み進めるにつれつながってくる彼らの人間関係でしょう。

 

ここで詳しく書いてしまうと読む楽しみを失ってしまいますが、恋愛には多角形がつきものです。徐々に「あれ? こう書かれているこの人ってあの人なんじゃないか?」という手紙で彼らの関係性がつながった時にフフッと笑みがこぼれてしまいます。

 

さらに、この小説には作者本人が登場してしまうのです。面白いのは、別の作品を読んでいると出てくる内容がちらほら出てくるのです。特に、夜は短し歩けよ乙女の内容がたくさんあったように思います。他の本で読んだ内容がふらっと出てくると楽しいです。

 

そして後半の恋文失敗集は青臭い男のどうやっても届かない恋心が見え隠れ、というより見え見えしてしまう場面では笑いがこみ上げてきてしまいます。

 

恋文を送ったことはないにせよ、恋をしたことのある男なら誰でも分かってしまうような気持ち悪さが身近で面白かったです。

 

恐ろしい女帝、大塚さんとの熱い頭脳バトルは爆笑必至です。電車内で笑ったら白い目で見られました。どうしてくれるんだコノヤロウ。

 

そして最後に、この作品では”おっぱい”がたくさん登場します。

 

決して卑猥なシーンなどはありません。決して。そもそもおっぱいと聞いただけでエッチだ卑猥だポルノグラフィティだというのは短絡的だと私は思います。おっぱいなんてただの脂肪のかたまりである。

 

しかしながらおっぱいという単語はマシンガンのようにたくさん出力されています。

 

おっぱいおっぱいおっぱいおっぱい。わけのわからなくなった彼らは敵を知り、己を知らば百戦危うからずの姿勢で、おっぱいを知り、おっぱいを目前にしたときの己を知るために、おっぱいへ立ち向かいます。何言ってんだとお思いになるでしょう。私もそう思っている。ただ、この作品とおっぱいは切っても切り離せない存在なのです。

 

ただ画面いっぱいに映るおっぱいを見て、アポロ11号を腰に携えた我々は月に行くことはできるのでしょうか。その答えがこの本にはないことだけは、確かです。

 

 

 

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映画鑑賞を謳歌する(バースデー・ワンダーランドを見て)

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中野を謳歌 第08回 映画鑑賞を謳歌する。

このブログはフィクションであり、筆者の妄想と夢で出来ている。真に受けたことによる一切の責任は負いかねるので悪しからず。

 

前回のあらすじ

映画鑑賞のために知らない街へ行ったら、エッチな街だった。
 

picnosic.hatenablog.com

 

 

スケベストリートを抜け、映画館のあるショッピングモールに到着した。どうやら地元の小学生の週末の憩いの場らしく、とても騒がしい。催し物もいくつかあったせいで走り回って存分にショッピングモールを謳歌している子供も多かった。

 

映画館が入っているフロアに入ると、その騒がしさも重いドアによって少し遠くなった。見る予定の映画は決まっているが、一応上映されている映画の一覧を見る。その場で見る映画を変更したことは無いが、何となくいつもやってしまう。

 

今回も見る映画は変わることはなく、チケットを買うために列へと並ぶ。同時期に公開している映画の関係上か、小学生ほどの年齢の子どもたちが多い。映画鑑賞という非日常を楽しんでいるように見えて和やかだ。

 

母親にポップコーンをねだる者がいれば、横のモニターから流れるポケモンの映画の予告編を見て、「あっピカチュウだ! 見てみてピカチュウだ!!」と興奮する者もいる。ただピカチュウが写ったときはその場にいたほとんどの子供らの目が光ってモニターに釘付けになっていた。ピカチュウの凄さを改めて実感した瞬間だった。

 

私の番になり、私は店員のいるカウンターの方へ向かい、今回見る映画のタイトルを告げる。店員は映画館の全体図を出して、どのあたりの席がいいかと尋ねる。私は突発的ハライタ症候群という突然お腹が痛くなる、胃腸がマンボウ並に弱い人間なので、列の端以外だと不安でお腹が痛くなるのだ。ちょうど中央が入り口の映画館だったので、真ん中の後方という絶妙な位置の席を獲得した。

 

特にやることもなく、少しショッピングモールを散歩し、早めに映画館に戻ると食べ物を買う列がすでに出来ていた。少しばかりの焦りが生まれて私はすぐさま列に並んだ。私は映画を見る時のほとんどでチュリトスを食べる。ちなみにシナモン味である。ポップコーンはその時々によるが、一人のときは食べないことの方が多い。まぁ財布の問題である。他人の財布で払ったポップコーンは甘くて美味しいのを私は知っているのだ。

 

列に並んでいる間、限定ドリンクやフライドポテトが私の小腹を誘惑してくる。私はお財布の機嫌を伺ってみる。

「誘惑に負けては駄目よ! あなた今月いくら使ったの! moneyforward見て出直しなさい!」

どうやらお怒りのようだった。スマホを開いてアプリを見ると、そこには鬼の面をかぶった支出額が映し出されていた。私はすぐさまスマホをポケットにしまい、「チュリトスのシナモンを一本ください」と店員に頼んだ。

 

想像よりもちょっと長いチュリトスを受け取り、開場を待つ。しかし、早く来すぎてしまった。まだあと十分以上はある。右手に握ったチュリトスが重く感じる。私はチュリトスをかじった。

溢れるほどかけられたシナモンと砂糖の粉はかじった瞬間に顔の周りで舞い、鼻に甘ったるくもどこか爽やかなシナモンの香りが入ってくる。歯車のようにギザギザした表面はカリカリとしていて食感が楽しい。そして中心のフワっとしていてモチモチの部分はカリカリの尖った甘みを優しく包み込んで噛むたびに幸せがこみ上げてくる。美味い。

 

一口でやめられるわけもなく、サクモチサクモチしていると、あっという間に半分近く胃袋の中に移動していた。我に返ってチュリトスを体から引き剥がす。こいつは魔物だ。しかし、私はこう思った。映画上映中にチュリトスを食べたらどうなるかと。

シリアスなシーンで劇場に響くサクサク音。感動的なシーンでモッチモチとチュリトスを喰らうのはどういうことかということを。昔、上映中にポップコーンを食べようと思ったら想像以上に音が響くものだから、BGMが大きくなって騒がしくなったタイミングを見計らってポップコーンをムシャムシャ食べた記憶が蘇る。

 

映画が始まったらチュリトスを思う存分楽しめないのではないか。

 

そう思ったら早かった。チュリトスは開場と同時になくなっていた。私は満足げな顔で映画館へと入っていった。

 

今回見る映画はバースデー・ワンダーランドという映画だ。

私は声優の東山奈央さんが好きなので、もともと気になってた映画に好きな声優さんが出ていると聞けば行くしかなかったのだ。

 

上映前の長い広告や映画の予告編を楽しんでいると、 私の前を通って仲の良さそうな親子が奥の方の席へ入っていった。周りを見ると、親子がたくさんいて、私はちょっと気まずいような気持ちを覚えた。しかし劇場が暗くなっていくにつれ、そんなことは気にならなくなった。

 

バースデー・ワンダーランドという映画は、地下室からのふしぎな旅 著:柏葉幸子 という作品が原作である。

 

 主人公のアカネは誕生日プレゼントをもらいに知り合いの店へ向かうが、物置だったはずの地下室から突然謎の男と妖精? がやってくる。アカネが必要だと連れて行かれた先は不思議な異世界。この世界は色を失い始めていて、それを解決する鍵はアカネにあるという。あちこちで暴れまわる暴君の正体とは……そしてアカネは無事にこの世界の色を取り戻せるのか……! という物語である。

 

 映画が終了し、EDが流れる。曲も好みのタイプである。映画の余韻に浸るエンドロールの数分間、私はずっと横が気になっていた。私から5席ほど離れた奥に、仲の良さそうな親子が座っている。子供の方は小学生3,4年生だろうが、映画の最中の盛り上がるタイミングや主題歌がかかったタイミングで迷惑にならないくらいの小声でフゥゥ〜!と興奮した声をあげていたのだ。別にタイミングとしては間違ってないので私も気にならなかったが、EDのサビが流れた瞬間、私は驚くこととなる。

 

「うおおぅ〜!」と言いながらヘッドバンキングをしているのだ。

 

私は笑いをこらえるのに必死であった。ただ、彼が映画館を出る時「すごく面白かったね、お母さん!」と言っていたので、彼の最上級の喜びの舞いだったのだと思うと少し私も楽しくなってきたのであった。

 

そんな、少年がヘドバンするほど面白いバースデー・ワンダーランド。

どんよりとした物語のファンタジーではなく、イメージとしてはデフォルメされた童話のような感触の映画だった。悪意に立ち向かう物語ではなく、少年少女らの成長の物語、という方が的確なのではないだろうか。にしても、アカネは小学生というよりも中高生と言われたほうがしっくりくる体格だったような気もしないでもない。

ただ面白かったことに変わりない。

 

wwws.warnerbros.co.jp


milet「Wonderland」MUSIC VIDEO 映画『バースデー・ワンダーランド』

 

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仁丹同盟を謳歌する。

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中野を謳歌 第07回 仁丹同盟を謳歌する。

このブログはフィクションであり、筆者の妄想と夢で出来ている。真に受けたことによる一切の責任は負いかねるので悪しからず。 

仁丹という単語を聞いたことがあるだろうか。

聞いたことがあるとすれば、おそらく30代以上の年齢の方たちからだろう。

 

聞いたことがない人には分かりやすい説明を。

仁丹とは、ルートビアもしくはタイガーバームのような香りを放つ生薬を銀箔で包んだ小さい粒状のサプリメント的なものである。サプリメントは的確な表現でないので、何かいい表現があればご教示願いたい。ちなみにこの粒は、お風呂のチェーンのつぶつぶより二周りくらい小さい。BB弾の方が分かりやすかったか。まぁいい。

 

別にここで仁丹の宣伝をしたい訳では無い。

私は、この仁丹の購入までで起きたいくつかのエピソードを書きたいのだ。では参る。

 

私は直近数ヶ月ほど、仁丹を探し歩いている。理由は単純。一度仁丹を食べてみたいからである。去年ほどから私の耳に入ってくる仁丹の二文字。画像検索しても現れるのはペリーみたいな謎の男と、銀色の粒々のみであった。幼少期より駄菓子屋でミンツを貪り食ってきた私は、大いに興味を惹かれた。一体どんな味がするのか。数多く書かれている効能は本当なのか。疑問は数多くあるが、解決法はただ一つ。この目で見、そして食うことだ。

 

まずは近所のドラッグストア。そもそも仁丹が置かれるのはどの区画なのかある程度の検討はついても確証はない。洗剤や化粧品の棚も含めた店内すべての棚を見回してもそれらしき商品はない。サプリメントのあたりが怪しいと思って三度見たが、仁丹は売っていなかった。

 

それからは長い道のりであった。出歩く先でドラッグストアがあれば立ち寄り、仁丹を探すついでにカロリーメイトの値段も見る。これの繰り返し。長い道のり過ぎて仁丹のことを忘れてすらいる時期があった。ちなみに、通販であれば気軽に手に入るのは調査済みである。何なら楽天市場で見つけたリンクを下記に記す。気になった方はポチってみるのもいいかもしれない。

 

そうして先日、仁丹との出会いは突然に訪れた。

 

コンビニで飲み物を買うと高いということで、昼に飲み物を買うときは近場のドラッグストアで買うようにしていた。コーラがすごく安い。そしてその日も何かしらの飲み物を買った。Suicaでピッとやって買うのは罪悪感が薄れるので金銭感覚がぶっ壊れるらしいが本当だろうか。私調べでは、買い物の無駄遣いより、電車バスの交通費で思わず残高が溶けていることが多い。出かけるのは良いが、交通費も念頭に入れないと大変なことになりますぞ。(実体験)

 

また話がそれたが、飲み物を買って店を出ようと踵を返したその時、外からの光を反射して目の前の棚が光った。その棚を見ると、驚くことに長い間探し求めていた仁丹があったのである。探しものは探すのをやめた時に出てくるとはこのことで、私はその時すっかり仁丹のことを忘れていた。思わず「ワァー!」と言って指を指してコサックダンスを踊りたかったが、店の通路が狭かったのでやめた。他の理由もある。

 

何より驚いたのがサイズである。手のひらくらいのサイズだと思っていたら、なんとSuicaよりも一回りほど小さかった。これは見つからないはずである。画像検索ではサイズ感が分からなかったのだ。

 

あいにくそのときは時間が迫ってきており、帰りにまた来るからその時まで待ってておくれと仁丹に告げ、一旦店からは離れた。それからの数分間は、口角が天に引っ張られてずっと微笑んでいる不審な人にならざるを得なかった。


夕方、帰り道にもう一度ドラッグストアへ入店。なぜか緊張して心臓が高鳴る。意味もなく店内をぐるぐるし、仁丹が置かれているレジの方へ向かう。目的の棚の目の前に立って、一度深い呼吸をし、仁丹を手に取り、滑らかな動きでレジへ差し出す。

レジの向こうからいつも元気な店員が「こんにちは!」と挨拶し、仁丹を受け取る。

 

店員はバーコードを読み取り、料金を確認すると、突然こう言い放った。
「今開けましょうか?」
セブンイレブンブリトーを買ったときに言う「温めますか?」くらいのテンションだった。まるで開けて当然だよな? と言外に訴えているようでもあった。
ジンタニアン(仁丹をこよなく愛し、仁丹を広めることを生きがいとする人々のこと。また、仁丹依存症患者をさすこともある。)の間では仁丹を買ったらその場で開封すべきなのか? にわかジンタニアンの私は一瞬で悩み尽くし答える。

「……いや、開けなくていいです」

開けなくてよかったのかという疑問もあるが、開封は帰宅後の楽しみに取っておきたいのだ。すると、開けないと聞いて若干悲しそうな顔をしていた店員が突然胸ポケットに手を差し込みこう言った。

「僕も仁丹飲んでるんですよ! 容器もカラフルで綺麗でしょ?」

その言葉と共に胸ポケットから取り出されたるは青色の容器に入った仁丹だった。

驚き半分と何なんだこいつはという恐怖半分で口角が釣り上がる。なにか言ったほうがいいのかと思って口を動かす。

「あっそうっすか。」

めっちゃ興味なさそうな言葉がポロリと漏れてしまった。店員の表情も曇って仕舞うかと思いきや、

「よろしくお願いします!」

と朗らかに訴えてきた。なんだか可笑しくて仕方がなくて、私は笑いながら「はい」と答えることしかできなかった。店員の彼も笑いだして、二人で数秒笑いあう。

 

軽く挨拶を交わして店を出たあとも、ずっとあのちぐはぐな時間が面白くて5分に一回思い出し笑いをしてしまうことになってしまった。

てか、ジンタニアンってなんだ。

 

 

 

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