自己嫌悪を謳歌する

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中野を謳歌 第03回 自己嫌悪を謳歌する。

このブログはフィクションであり、筆者の妄想と夢で出来ている。真に受けたことによる一切の責任は負いかねるので悪しからず。

 

 

時々、昔のことを思い出して布団で転げ回って叫びたくなる時がある。

どうして、あの時あんなに気色悪い行動をしてしまったのか。なんだあの言い回しは。脳みそカニ味噌合わせ味噌か。ハイ、コレも数年後恥ずかしくなるやつ。なんならもう恥ずかしい。

 

ともかく、最近は音楽を聴いていると、そういう恥ずかしさを感じてしまう。

 

というのも、現在の好きな音楽は過去に私の周囲の人が好きだったアーティストなのだ。もちろん自分から好きになったアーティストもいないわけではないが、音楽を聴いていると、いつもその音楽を好きだっふた人のことを意識してしまう。

 

突然だが、私はサカナクションが好きだ。ベストアルバム「魚図鑑」が発売され、そういえばアイツが好きだと言っていたな……と手にとってみたらどハマリし、今では一番よく聴くアーティストになってしまった。

 

好きなアーティストが増える、それ自体は素晴らしいことなのだ。

 

私が感じる恥ずかしさは、周囲の人からの影響でアーティストを知ったことではなく、知った当時の自分自身の行動に対する恥ずかしさなのだ。

 

サカナクションに関して言うなら、知り合いから話を聞いた当時にも気になって聴いてみたのだ。しかし好きになることはなかった。その音楽の良さに気づけなかったのだ。新宝島を聴き、その後にサビが最後に来る夜の踊り子を聴いてしまったのが悪かったのかもしれない。アイデンティティとか、アルクアラウンドとかを聴くべきだったのかもしれない。今では夜の踊り子も大好きだが……ってそういう問題ではない。

 

ともかく、当時良さに気づけなかったことがすごく恥ずかしいのだ。あの時は好きではなかったけど、今聴くと良いなと思う曲に出会うと、当時そのアーティストを好きだった人に遅れをとっているような感覚が湧いてくる。それをなんと表現するのかはわからないが、例えるなら、相対的に幼かったことが悔しいのだ。

 

この恥ずかしさはどれだけサカナクションのことを知っても消えることはなく、ふとした瞬間に自己嫌悪にも似た恥ずかしさが体内で踊るのだ。こういった感情はやはり他の音楽を聞いているときにも存在する。

 

数年前、精神がダークサイドに転落し「何もかも捨てて温泉へ逃げてやる!」と熱海へ逃げた際に聴いていたナユタン星からの物体Yは今聴いてもその時の気持ちがよみがえってくる。特に火星のララバイを聴くと今でも胸が締め付けられる。しんみりしたいときに聴くと最高。

 

自己嫌悪も悪い面ばかりではない。これによって気づけたことがある。それは、年齢による見え方の変化だ。

 

今までは年齢なんて、生きてきた期間を表す指標でしかないと思っていたが、重ねた年齢は見える景色、聞こえる音、味覚などあらゆる感覚器官を変化させていっているのではないかと思うのだ。私自身、まだそんなこと偉そうに言えるような年齢ではないけれども。

 

この変化は、正確には年齢の差ではなく、身長や体重、知識や経験などの身体と精神の変化のせいだろう。ただ、否応なく流れてゆく時間の経過を表している年齢という指標が、私の中のまだ薄く脆い部分が地層のように積み重なって、少しだけ見晴らしの良い場所にいることを示しているように感じるのだ。

 

だから私はこの変化を年齢の変化と捉えていたい。私は積み上げた時間の頂上からこの身を投げて生涯を終えるのだ。

 

そう考えると、死というものも違ったように見えてくる。

 

死ぬために生きている、だとか、生まれた瞬間から死へ向かっている、というのはどこかで聞いたことのあるような話だが、生きるというのは変化であり、我々は死の瞬間、今まで積み上げてきた変化の層の一番上に生命の喪失という変化の層が積み重なって死ぬのだ。

 

ただ、その層の上に登って初めて見える景色を知る生者は誰もいない。