自意識過剰を謳歌する

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中野を謳歌 第09回 自意識過剰を謳歌する。

このブログはフィクションであり、筆者の妄想と夢で出来ている。真に受けたことによる一切の責任は負いかねるので悪しからず。

 

私は最初、自意識過剰は幸せであるのかという文章を書いていた。

それはかけば書くほど深い樹海に迷い込んだように方向感覚を失い、ポケットにしまいこんでいた方位磁針もあちこちを指すようになってしまった。正解はあちこちにあるようでいて、それらはどれも近づけば霧散する。

こんな恐ろしい文章を書き始めてしまったことに恐怖した私は妄想からの脱却、つまり文章を抹消することによって自意識の樹海から抜け出すことに成功した。

 

だがしかし、私はまたこの文章を書き始めている。

 

それはこの内なる自意識と対峙せねばならぬという決意。あるいはこの文章の転がる先を面白がって見てみたいという好奇心。どちらにせよ問題は一つ。どう転がすか。

 

先程書き記した樹海の地図は、捨ててしまってもうどこにもありはしないが、樹海で迷った経験というのは失いようがない。

 

きっといつか結論が出せると願ってこの先の文章を書いていく。私は樹海の先にある美しい湖を目指すのだ。

 

自意識とは何か。私は樹海に入り込む前に、背負ってゆく荷物を整理することにした。

 

自意識とは自我であり、自分と世界とを切り分ける切り取り線、もしくは自分に対する意識、考えである。自意識過剰とよく耳にするが、それは多くの場合被害妄想であったり、自己の評価という意味で用いられる。自分にベクトルが向いた物であるのは確かである。

 

自意識は自己評価を促し、周囲を見渡すことを教える。周りの人間の表情や視線を見て、自分はどう思われているのか、彼らは何を思っているのかを私に考えさせる。

 

それは時に自己理解と成長につながる。欠点を発見しパッチを当てる。しかし、自意識は時に過剰に私に問いかける。それで良いのか。お前には何も見えていないのではないか。

振り払えるほどの過剰さなら問題はないが、ウイルス感染のように全身に拡散する自意識は次第に体を重くし、自分と世界を明確に隔絶。そして独立した個体のように自己を認識する。目を塞いでも聞こえる批判に、耳を塞いでも見える嫌悪感。それらは世界が自分を拒絶しているようで、自分の輪郭線を太く濃くしていく。

 

だからといって自意識を失ってはならない。

自我のない精神はただただ歯車として回り続け、全体の構造を思案しない。歯車を円滑に回すことには精通するかもしれないが、それ以外の成長は見込めない。だが、世界は歯車を必要としている。時に形を変え、加減速していく歯車は扱いにくい。自意識の欠如が不幸かと問えば答えは定まらない。

 

そろそろ方向感覚を失いそうだ。

 

自意識に溺れてしまえば欠点もあちこちに分身し全体が病原菌に侵された錯覚を起こす。

忘れてはならないのが、自分と世界とは切り分けることが出来ない。ただ薄く点線として切り取り線がそこにあるだけ。切り取るのはいつだって私だけなのだ。

 

まずい帰り道を見失った。進むしか無いのだろうか。

 

自意識の量が適切であることが重要であるというのは書き始める前から分かっている。ただ調節することが出来ない私は、この持て余した自意識を抱え続けるべきか、この樹海に捨て置いていくべきなのか、それが問題なのだ。

 

自意識過剰が身を滅ぼす危険性を孕んでいるのと同時に、ある種の危機察知能力として働くのもまた事実である。自分に向けられた銃口に気づかず撃ち抜かれるか、常にありもしない銃口に恐怖して回避するかの違いでしか無いが。

 

考えると、自意識の有無によって変わるのは滅ぶ時だとも考えられる。世界から自分を切り取って自滅するか、隣人に後ろから撃たれるか。

 

私は抱えきれない自意識をポイと捨てて樹海から逃げ出した。

私には自決する覚悟もなければ死刑執行を他人に頼む懐の大きさはない。

結局樹海に眠る湖は幻となり、私は自意識を小出しにゴミ袋に詰め込み、燃えるゴミの日に紛れて捨てた。

 

 

 

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