ボクが死ねば、セカイは滅びる。【ペンギンハイウェイ_感想】
カテゴリ【小説】
タイトル【ペンギン・ハイウェイ(森見登美彦)】
評 価【映画も面白かったで賞】
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〈概要〉
小学4年生の少年、アオヤマ君はいつもノートを持って、気になったことがあれば何でもメモして、たくさんの研究をしている。特に今の関心事は近所の歯科医院のお姉さん。ある日、彼の住んでいる街に突然ペンギンが現れる。同級生のハマモトさんやウチダ君と協力してペンギンはどこからやってきたのか、なぜ住宅街に現れたのかを調査していると、お姉さんの不思議な力と森の奥にポツンと浮かぶ球体、<海>が関係していることが分かるが……? アオヤマ君の世界は、毎日忙しい。
〈感想〉
小学生とは、学校の門越えする作戦を一日中練ったり、帰り際に百円握りしめて隠れてコーラ買ってチクられたり、授業中、ノートに謎の生命体を書いてたら授業を見に来てた校長先生が突然後ろにいて心臓止まるかと思ったりする。そんなものだと思っていた。しかし、この作品の登場人物ではそういった類の小学生が少ない。
この作品の中では、とにかく少年少女たちの頭脳が冴え渡っている。アオヤマ君は大人になるまでの日数を計算し、毎日少しずつ偉くなれば、大人になったときにはものすごく偉くなっているのでは、という理論を実証するべく、気づいたことは何でもノートに記録して、たくさんの興味を研究という形で頭の中で整理して知識や経験として落とし込んでいる。もう一度言おう。そんな小学生は滅多にいない。一つの市に一人くらいしかいないのではないか。
ちなみに私の小学生の頃なんていうのはゲームやるために生きてるみたいなものだった。ゲームと漫画とアニメの3つをもって私は生きていた。威張って言うことではないと思うが。
好きな漫画や小説などの発売が生きる希望になっているのは今も変わらないが、あの頃は本当に一日一日がひとつの映画のようだった。好きな言葉や価値観が毎日のように変わり、見聞きしたものにすぐ影響される。
とにかくこの作品で一番印象に残った場面がある。
それがウチダ君の研究の場面である。
この場面は物語の主軸とは関係ないものの、作者である森見登美彦さんの興味深い、ものの見方が色濃く感じられると思った。
映画では残念ながら触れられていなかったが、映画には映像ならではの面白さもあったのでとても満足している。
ウチダ君いわく、ぼくらは死なない。
我々が観測する死というのは年をとった親戚のものであったり、事故に見舞われた知り合いのものであったり、急死した有名人のものだったりする。他人の死である。
一見当たり前のようであるがこれが重要なのだ。
我々は超常現象にでも精通していない限り自分自身の死を客観視することはできない。
もし私が愛する人の死を見届けたとしても、それは私というフィルターを通過した後の死でしかない。つまり、ぼくらが見聞きする死は本物ではない。それは死のレプリカ、偽物である。
死んだ後には何かを認識することも、思考することもできない。感じることができないものは存在できない。音のない音楽も、色のない絵画も、存在しないことと同じであるように、ぼくらは死の先に待ち受ける悲しみも、苦しみも、ともすれば喜びも感じることはできない。
もし私が死んだ後に何もなかったように家族が生活したとしても、世界中が悲しんだとしても、私はその真実を知ることはできない。
私が死んだとき、世界は中野黄加という観測点を失い、世界は観測できなくなる。
それは世界の終焉とも言える。
これを読んだとき、感動した。私が抱いていた死というものに対する漠然とした違和感というものが晴れかかった気がしたのだ。
自分のすぐ後ろでは、すべてが静止しているのではないかという不安から、曲がり角を過ぎた直後にフェイントで振り返って見ても、変わらずに世界はあった。
だが、それは私が振り返った瞬間の世界が動いていただけであって、私の後ろの世界が常に存在する証明にはならないのだ。
人間が死ぬときに決まって通るという三途の川もまた一つのペンギンハイウェイなのか。なんの脈略もなくそんなことを思いついて、私はなんの意味もなく後ろを振り返ってみるのだ。
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